ここでは西陣織とはいったいどういったものなのかをご説明していきたいと思います。
『西陣織』という名前を耳にした事があるという方は、皆様の中にも多数いらっしゃるのではないでしょうか。ではなぜ西陣織と呼ばれるようになったのかを少しお話いたします。
話は応仁の乱にまでさかのぼります。応仁の乱は1467年から11年間京都を中心に続いた戦争のことです。東軍率いる細川勝元と西軍率いる山名宗全とが争った戦争です。その戦争の際戦乱を避けるべく、京都の織物職人たちは都を離れ各地に散ってしまいました。
やがて戦争が終わりを告げると、各地に散っていた織物職人たちは再び都(京都)に戻り織物業を再開しました。その再開した場所が西軍の陣地だったことから、西の陣すなわち西陣であり現在の西陣織と呼ばれるに至ったということです。西陣織と呼ばれるようになってから500年余りの歴史があるわけです。
『西陣織』の歴史は奥深く、5、6世紀ごろに秦氏の一族が渡来し現在の京都太秦のあたりを拠点に養蚕、織物の技術やらを伝え発展させたのが始まりとされています。
やがて大化の改新により律令国家という新しい政治方針の発足に伴い、織部司(おりべのつかさ)という組織を発足させ、そこに技術を受け継ぐべく職人たちを所属させ織物の生産に当たらせたといいます。いわば国営の工場であったわけです。こうした職人が集まる町を織部町と呼んでいたそうです。
織部司はその後も奈良時代を経て平安時代まで更なる発展を続けました。しかし平安時代中頃になると、次第に律令体制もゆるみはじめます。この頃では織物職人たちも国の仕事にとどまることなく、私的な仕事として織物業を行なうようになっていたということです。だんだんと宮廷よりも武家の力が政治の権力を握るようになり、織部司も衰えていったそうです。
やがて鎌倉時代になり幕府の政策により織部司は廃止されたそうです。
幕府は関東に移ってしまいましたが、そのすばらしい技術を持った職人たちは武家からも保護、支持され続けました。この頃の織物の中心地は織部町の近くである大舎人町、大宮町などで「大舎人の綾」、「大宮の絹」などと呼ばれ評判は高かったようです。いわば政治の中心地が関東の鎌倉であるのに対し、高級工芸の中心地は京都のままだったわけです。
やがて室町時代では応仁の乱により、職人たちはこの地を離れますが、戦争が終わると再び彼らはこの地に戻り織物を再開させました。
安土桃山時代には、豊臣秀吉らに保護、激励される一方で外国からも新しい技術などをどんどん取り入れて発展していったそうです。
やがて260年余りの平和な江戸時代へと続きます。この安定した時代の中で西陣織は更なる発展をとげます。諸大名や豊かになってきた町人たちの需要も飛躍的に増えていったそうです。
だがその後、全国的な大ききんが訪れ天保の改革が実施されます。高級織物の贅沢品である西陣織にも厳しい節約が強いられたのです。これにより大幅に需要も減り織物業者の倒産も相次ぎ起きて、大きな痛手を負うこととなりました。
こういった経緯を経て明治維新により首都が東京に移されたことも重ねて痛手を負うことの原因になりました。
こういった痛手から抜け出すべく、明治の初めごろ西陣織は大きな組合を設立しました。そして海外の技術を習得すべく、フランスやオーストリアへ人材を派遣しました。そしてジャカード機、バッタン機などを導入しました。
ジャカード機はフランスで発明されたパンチカード(紋紙)を使うもので、従来よりはるかにスピードも優れとても画期的なものだったということです。早速この優れたジャカードは技術者により模造されたとのことです。そしてその技術は西陣にととまらず、各地の多くの職人たちにその技術や使い方の説明が伝えられていったそうです。これにより西陣織は急速に近代化が進んだといわれています。常に新しい物にも目を向けるといった昔からの精神とでもいいましょうか。
こうして西陣織は再び昔のような活気を取り戻し復興いたしました。
現在では西陣織は着物や帯はもとより、バッグ、小物入れ、財布、ネクタイなど様々な商品での展開も多数行なわれており、更なる発展に余念がありません。
西陣織の最大の特徴はあらかじめ必要な色に染色した糸を用いて、紋様(模様)を織り出す織物です。これを先染めの紋織物(もんおりもの)といいます。そしてそのほとんどは絹で織られています。
織物は長さ方向のタテ糸と幅方向のヨコ糸とで織られますが、専門的にはそれぞれ経(タテ)、緯(ヌキ)と呼ばれています。簡単に申しますと織物の長さ分の何千本というタテ糸をあらかじめセットしておき、そのタテ糸を必要に応じ上げ下げして、ヨコ糸を通していくことにより模様を作り出して行くわけです。このタテ糸とヨコ糸に技法を加えることにより様々な織物の模様ができるのです。
西陣織の織り機は以下の3種類で、織物の種類によってそれぞれ使い分けられます。
手機(てばた)
ジャカードを使って職人が織る方法です。ジャカードは模様の図案を元に丸穴をあけた紋紙を用います。その紋紙の情報を元に機械がタテ糸の上げ下げの指示を出し、そこにヨコ糸を通して織り上げていきます。
力織機(りきしょっき)
織りの作業を機械で行なう方法です。ヨコ糸がなくなると交換をするぐらいで後は機械が織り上げます。大量生産に向いています。
綴機(つづればた)
全て手作業により織り上げていく、最も古く歴史のある方法です。職人が丹精込めて一本一本織り上げていきます。そのため模様によっては一日に数センチしか織れない場合もあるようです。
ここではいくつかご紹介いたしましょう。
平織(ひらおり)
綾織(あやおり)、朱子織(しゅすおり)と共に織物の三大原組織のひとつ。一般的な布地において最も基本的な織り方で、タテ糸とヨコ糸を一本づつ交互に織っていく方法です。
綾織(あやおり)
斜文織ともいいます。平織ではその織り目が縦横まっすぐなのに対して、タテ糸とヨコ糸を一本ずつ交互でなく何本かおきにずらして斜めの織り目を形成する方法です。
朱子織(しゅすおり)
タテ糸とヨコ糸の最も交わりの少ない方法です。タテ糸かヨコ糸を一本ずつ交互でなく何本もずらしてタテ、ヨコどちらかを浮きあがらせていますから柔らかな光沢が現れるのが特徴です。
綴(つづれ):タテ糸にヨコ糸を織り込むように模様を作り出していきます。絵を描くような自由な表現ができますが非常に手間もかかります。歴史は古く2000年以上と言われておりエジプトのコプト織やフランスのコブラン織もこの綴織です。
緞子(どんす):朱子織(しゅすおり)の織物で、地が厚く光沢もあり手触りが良いといった特徴もあります。
ビロード:あらかじめ針金を織り込み、その後針金を抜くとその太さ分だけ糸が浮きます。これを利用し輪を作ったり、切り開いて起毛にしたりします。
紬(つむぎ):真綿から手で糸をつむいで織られた織物の事で、平織で織られます。
経錦(たてにしき):錦の一種でタテ糸により模様を織り出すもので、1200年もの歴史があるとも言われています。
緯錦(ぬきにしき):錦の一種でヨコ糸により模様を織り出すもの。
金襴(きんらん):金糸(金箔などを糸に巻きつけて作ります)を他の糸と織り込んだ豪華な織物です。昔から茶道具などで有名な名物裂の金襴は数多くあります。
西陣織ができるまでには様々な工程があります。西陣織の特徴としましては、それぞれが分業により、その道の専門の方たちにより行なわれているのがごく一般的だということです。
以下簡単にその工程の流れをご紹介いたします。
図案:織物のデザインを行ないます。
紋意匠図:デザインに基づき専用の紙に彩色していきます。
紋彫り:紋意匠図にあわせ、ジャカード機のための紋紙に穴あけの加工を行ないます。
紋編み:紋紙を一枚づつすだれのようにつなげていきます。最後は織り機にセットします。
次は原料の準備の説明に移ります。
撚糸:細い糸を何本も合わせ一本の糸を作ります。織物によっては何十本の時もあります。
糸染め:出来上がった糸を染色の機械などを用いて、紋意匠図の色に染めていきます。
糸繰り:染色された糸を色別に五光とよばれる道具により糸枠に巻き取ります。
整経:タテ糸を糸枠から外し機械にかけ糸を整え、最後に千切(ちきり)という筒に巻きます。
綜絖(そうこう):タテ糸を織り機の各部分に一本ずつ通していきます。西陣織で一般的に用いられるタテ糸の数は、3000本から8000本とも言われています。ですから何千本という数のタテ糸を通していかなくてはならないとても緻密な作業といえます。
以上の工程を経て織り機へのタテ糸がセットされ、織るための準備は整いました。
製織:ジャカードが紋紙を読み取りタテ糸を上げ下げするので、そこにヨコ糸を通し織り上げていきます。現在の主流は力織機ですが使える色は限られており、より多くの色が必要な時には手機が用いられます。
※西陣織についてさらに詳しくお知りになりたい方は西陣織工業組合のHPをご参照ください。
これまで西陣織についてできるだけわかりやすく解説してきたつもりですが、少しはご理解していただけましたでしょうか?
一枚の織物ができるまでには数多くの工程と、それに伴った技術が必要になるわけです。歴史と伝統を誇る高級絹織物の西陣織ですが、今日までその技術が伝承され続けられたのも、何よりこれに携わってきた方々がいたからこそだというのを改めて実感させられます。